2008年6月17日 (火)

地震

総務相、「激甚指定が必要」 不明者捜索などに全力

(産経ニュース 2008.6.15 14:15)

増田寛也総務相は15日、フジテレビの報道2001に出演。岩手・宮城内陸地震への対応で行方不明者の捜索や道路などの復旧、被災者の生活再建に全力を挙げる考えを示した上で「激甚災害指定も必要になる」と述べ、指定手続きを急ぐべきだとの認識を示した。

激甚災害指定は、公共施設や農地などの被害額が一定水準を超える場合に、復旧費用に対する国の補助率をかさ上げする制度。増田総務相は16日現地入りし、宮城県栗原市と岩手県一関市の被災状況などを視察する予定。

番組出演後、増田総務相は記者団に対し、地震対応に関連し、「自治体は手いっぱいで人も足りない状況だ。財政的にも問題がある。まもなく激甚指定の話も当然出てくるし、必要だ。国が適切に支援しながら生活再建への取り組みに全力を挙げていく」と強調した。

さすがは増田知事。もう知事ではないけれど、どうしても増田知事と呼びたくなってしまう、元岩手県民。この地震をきっかけに、地方が抱える諸問題について、もっと目を向けて欲しい。過疎化、少子高齢化、経済格差、雇用格差、医師不足 etc.... 

職を求めて生産年齢人口が流出している一方で、故郷へ帰りたがっている人間も少なからず存在する。私は絶対に帰りたくないけれど、帰りたいと願う人たち、その土地で一生を終えたい人たちが、暮らしていけるような環境は、もうすでに失われつつある印象を受ける。

西口開発は着々と進み、帰省するたびに見たことのない風景が広がっている。しかし、大通商店街や肴町商店街がさびれ、古くからその土地に定住している人間にとっては、やはり住みにくくなる一方。今年の1月頃、盛岡バスセンターをリニューアルするに伴って、高齢者専用のマンションとスーパーマーケット、病院などを併設するという記事を読んだ記憶があるが、どうなっているのだろうか??? 実現したら、市中心部ももう少し活気を取り戻すかな。

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2008年3月21日 (金)

風景

祖父が最後に見た風景が病院の天井じゃなくて良かった。私は遠距離介護をしていた母の言葉を聞くことしかできなかったから、間接的に関わったとすら言えません。だけど、祖父が本能的に病院から家へ帰ろうとした気持ちはなんとなくわかるような気がします。あそこは、祖父が自分の手で開墾し、何十年も生きてきた土地だから。豊かな自然に囲まれた自宅で看取られて、本当に良かったなぁと思います。

祖父は認知症を患っていました。去年の夏に会った時、私の顔も名前も覚えていませんでした。自分の娘である母の顔も時折忘れてしまう状態でした。それなのに、亡くなる前は不思議なほど認知がはっきりとしていた。それを知ったとき、私は母と二人で話しました。“もうすぐ旅立つのかもしれないね”と。なんの根拠もありません。ただ、二人ともそう感じただけです。脳のメカニズムって不思議ですね。

幼い頃、私は家庭の事情で祖父母に育てられました。実の両親よりも、しっかりと私を守ってくれた人です。だけど、涙は一粒も零れ落ちませんでした。なぜでしょう。見送るために精一杯力を尽くし、後悔の念がなかったからだという人もいますが、私にはわかりません。そうですね。きっと、泣いている場合じゃないんですよ、私は。生きていかなければならないんです。

あなたの送った歳月が、私の血を目覚めさせた。
優しく、人間的で、自由なあなたの姿が、
この地上における最も美しい生き方を思い出させた。
数千年にわたる宿命の恩恵で、あなたは精悍に蘇った。
そして、あなたはいくつもの意味を語りかけてきた。

(1914-1915年/G.ungaretti)

私の居場所はどこですか? なぜ偏見を持つのですか? 何も知らない人は手放しで認めてくれるのですね。それなのに、なぜ何かを知った途端に手の平を返すのですか? 何も言わない方がいいのですか? それもひとつの方法なのかもしれません。だけど、何も言わずに120%の力を出し続けたら、いつかまた、私は確実に壊れます。多くの人は120%の力を出すなと言うのでしょう? それができたら苦労はしません。むしろ聞きたい。なぜ全力を尽くさない自分を許せるのですか? 明日生きている保証なんてどこにもないのに。

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2008年1月28日 (月)

帰京

嗚呼、懐かしの我が家。ようやく戻ってこれた。予想外に長引いたマンションの契約更新。「審査が遅くなり、大変申し訳ありませんでした」ってねぇ……。かれこれ1ヶ月だよ1ヶ月。だけど、なにはともあれ、もう2年頑張れる。わがままを通させてもらったんだから、なんとかこのチャンスを活かさねば。とは言いつつも、多難な状況は相変わらず。まあ、100%やれるだけやって、それでも駄目なら、その時はその時。何の根拠もないけど、きっとなんとかなるさ。

新幹線の車内で、帰省中の自分を振り返っていた。母親と弟には申し訳ないことをしたなぁ。1月初旬を過ぎる頃まで、私はたぶん普通ではなかった。顔はいつも笑顔だったけれど、何か辛いことを隠そうとしている必死さが、2人に伝わってしまった。真夜中に偶然聞こえてきた2人の会話。「もう、あまり姉に負担をかけないように、お互いしっかりしよう」「そうだね、もう十分だから解放してあげよう」。その言葉を聞いて無性に悲しくなった。懺悔。確かに、負担だと思うことはたくさんあるけど、それを背負うのが私の役割。ずっとそうだったのに、自分のトラブルが原因で、家族の均衡を崩してしまった。本当に懺悔。

これから2年間、どのように生きていくのか、その結果どのような顛末をたどることになるのか、正直全く想像だにできない。未だ安定しない生活に、恐怖すらおぼえる。私の行き方は危ういらしい。止めてくれる人間がいなければ、誰にもSOSを出さずに、壊れるまで無理をし続ける。だけど、それは身体を傷つけない自傷行為に他ならないから、自分をセーブできない限り、まともな人間とは言えないんだろうな。

コンパスで描いたきれいな円も、フリーハンドのいびつな円も、必ず中心点を持っている。その中心点が“自分らしさ”。周りに流されず、自分らしさを持ち続ければ、おのずと視界が開けてくる。正円のように欠損のない人生を歩める人間なんてどこにもいない。いびつでも円は円。時には2つの円が重なり合って、互いの欠陥を補い合うこともある。それが、人との出会い。長い時間をかけて、いびつな円が美しい正円に近づくように、しっかりとした芯を持って生きなさい。そして、円の持つ独特のやわらかさで、人を優しく包み込みなさい。私はそんな生き方ができていますか? まだまだこれから。私は甘い。精進あるのみ。

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2007年12月 7日 (金)

舞台

久しぶりに舞台を見に行ってきた。いつ以来だろう。明治座の「燃えよ剣」を見たのが、2004年の5月。劇団新感線の「SHIROH」を見たのが2004年の12月。キャラメルボックスの「TRUTH」を見たのが、2005年の2月。…………随分、空いてる。やっぱり、この後が1番苦しかったんだなぁ。一緒に舞台を見るために東京を訪れた母親は、右も左もわからない。それを、不安神経症の私が、電車に乗るのも、人ごみを歩くのも怖かった私が、全責任を負って案内した。病気だと悟られないように、元気なふりを装って。それが限界に達して、全てをカミングアウトしたんだった。思い出すだけでも具合が悪くなってくる。だけど、まあ、そんなことはどうでもいいや <( ̄∀ ̄*)>

以下チケットぴあ公演情報(http://search.pia.co.jp/perform.htm?pcd=379463&sheetNo=205436)より
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M&O plays プロデュース 「死ぬまでの短い時間」

作/演出家の岩松了が、フィンランドの鬼才・アキ・カウリスマキ監督の「マッチ工場の少女」から想を得た新作音楽劇。

<登場人物>
孤独なタクシー運転手・シミズ・・・・・・・・・北村一輝
自殺志願の女・フタバ・・・・・・・・・・・・・・・・秋山菜津子
シミズに憧れている若い男・コースケ・・・・田中 圭
若いカップルの男・ドイ・・・・・・・・・・・・・・・古澤祐介
若いカップルの女・ミヤマ・・・・・・・・・・・・・内田 慈

<あらすじ>
その海岸ぞいの小さな町には、自殺の名所があった。
時折、駅に目線の定まらぬ人間が降り立ちタクシーに乗り込み「崖っぷちまで」と言う。
自殺しに行くのだ。それがわかっていながらなぜ連れていくんだという非難を浴びながら
「仕事だから」と自殺者を崖っぷちに連れてゆくタクシー運転手・シミズ。
或る日、駅に降り立った女・フタバ。「崖っぷちまで」と言う。
シミズはタクシーを発車させる。
崖っぷちまで来たフタバとシミズの間には、しかし、意外な展開が。何がフタバを思い
とどまらせたか、彼女は自殺せず、次の朝、シミズの部屋で目覚めたのだった。
シミズの姿は見えず、枕元にお金だけが残されていた……。
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会場は両国駅の近くにある「ベニサン・ピット」という小劇場。無骨な概観に、ガレージのような内装。元は染色工場の倉庫兼ボイラー室だったらしく、あえて手をつけずに、そのまま劇場として使用しているという。座席数は170ほどで、ほとんど立ち上がるスペースがないくらいに椅子が並べられており、1番うしろの席でも十分に出演者たちの顔がわかる距離。そういう、小洒落ていない粗野なところが、この舞台のテーマにマッチしていてかっこいいんだ!! だけど、そういう会場だけに、「※開演時間に遅れますと、お買い求めになった席までご案内できない場合がございます。」の注意書きは本当です。これから観劇される皆様、くれぐれも遅刻なさらないようご注意ください。5分遅れ程度なら、最後列に案内してもらえます。なにげに、おいしい席ですよ~!! 当たれば、たぶん最前列よりも!!

【都営新宿線 森下駅からの方】
駅のA2出口前に「ベニサン・ピット」という大きな看板があります。
長~い登り階段でA2出口を出たら、右へ。
セブンイレブンの角を右折して直進。
右前方に公演が見えてくるので、公園の十字路を左折してください。
「目印のお弁当屋さん」は……内緒です(笑)

【JR 両国駅からの方】
両国駅西口を出たら、マクドナルドとホテルベルグランデの間の大通りを直進。
ampmとドトールの前を通り過ぎて、両国二丁目の信号を渡る。
渡り切ったらシティコアの前を左へ。
すぐ先のJOMOを右へ曲がり直進。
しおばら橋を渡り、浄土宗西光寺を過ぎてすぐの十字路を左へ。
(「千歳二丁目」と「新大橋二丁目」の間の通りです。)

入り口に「当日券は18:00より発売いたします。壁にそって右方向に並んでお待ちくださいませ。」という張り紙があり、当日券用に席を用意してあるようです。あらかじめチケットを入手していない方も、早めに並べばご覧いただけると思います。ちなみに、トイレは男女共に会場内にはありません。会場入口の右側に自動販売機があり、その奥がお手洗いとなっていますので、2時間の舞台の前にそちらへ。会場内は全て禁煙となっていますが、外に灰皿が用意してあるので、喫煙者の方は半券を無くさないようにしてそちらへ。

開場前、5時30分。スタッフの動きがあわただしくなる。2階の事務所へ通じる階段が外にあるので、ひとつしかない入口をスタッフと観客が共有することになります。あまり入口近くに立っていると、スタッフの方のお邪魔になってしまいますので、適度に離れて待っていた方がいいかもしれません。

6時になると、当日券のチケット販売が始まると共に、チケットを切って、待合室までの入場が許されます。カバン&持ち物チェックはなし。待合室と言っても、椅子が3席しかなく、ほとんどのスペースがお祝いのお花で埋め尽くされていますので、6時半の舞台入場まで、立ってウロウロしている感じになります。その間に、パンフレット1500円を購入してもいいでしょう。ちなみに、お花を送ってくださっていた方々。坂口憲二、中村獅童、岸谷五朗、鈴木京香、江波杏子、内山理名、ガリレオ製作スタッフ一同 etc.... えっ?! 朝田が霧島に?! というのは置いといて、中でも、鈴木京香さんの、黒いカラーの花をベースにした花束が、とても際立ってきれいでした。

6時10分になると、サックスやドラムなど、音楽のリハーサル音が聞こえてきます。そして、6時30分、舞台へ入場。気になる座席ですが、突き出した舞台のサイドに各6席(159~164/165~170)ずつ。それ以外は、中央部に1列17~19席が、20cm程度のひな壇になっています(画像参照)。舞台セットは上手に崖と電話ボックス。下手にベッド。それだけ。その簡素さが出演者たちの熱い演技を引き立てています。

さて、気になる舞台の感想ですが、一言で言うととてもシュールです。シュールなだけに、好みは両極端に分かれそう。面白くなかったという前評判もあったけれど、私にとってはとても興味深いテーマでした。チケットぴあのあらすじを見て、こんなに書いてもだいじょうぶなのかと思ったけれど、そのあらすじ以上の展開と奥深さがありました。

人間という生き物は、時に、風に飛ばされボロボロになる新聞紙のように、あるいは舞い落ちる木の葉のように、何かに操られて生きている。それは、ただ単に息をしているということであり、本当に生きるとは、自分が意図的に何かを考え、行動するということ。死ぬまでの短い時間に出会ったものは、結局のところ自分と同じ“ただの人間”。それも、見ず知らずの、なんら関係のない人間。そんな人間の“言葉”が、命を絶とうとしている人間、命を絶たれた人間、生きている人間の心を強く揺り動かす。

言葉と言っても、自殺を止める言葉でもなければ、自殺を幇助する言葉でもない。ごくごく自然な世間話程度の言葉。そんな些細な言葉であるからこそ、本音は伝わりにくく、人と人との間で口論や意見のすれ違いが起こる。その結果、彼らは感情をむき出しにして、喜怒哀楽の起伏を持った“人間らしさ”を回復していく。ある人は、「人が人を救うということの意味を教えて欲しい」と言った。だけど、人が人を救うということは結果論でしかない。互いをさらけ出し、ぶつかり合いながら、価値観や倫理観を揺さぶられ、その結果として、生命力が生まれてくるのだと思う。

何が善で、何が悪なのか、何が正しくて、何が間違いなのか、そんなことは誰にも決められない。同じことが生と死にも言える。操り人形のように生きている人間は、息をしていない人間に等しい。反対に、息をしていなくても喜びに満ち溢れ、命を失って初めて自分が生きているという実感を持つ人間もいる。痛みに変わって咲いた真っ赤な花は、きっと紛れもない“生の象徴”なのだ。「忘れられるさ、過去の自分は他人だから」。そう、過去の自分は確かに自分だけれど、現在の自分とは全く違う、明らかな別人。私の死ぬまでの時間は、とても長く、想像を絶するほどに苦しいものであったけれど、それを乗り越えた今、私は新たな自分へと生まれ変わり、今ここに生きている。

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2007年11月29日 (木)

道程

11月中旬、軽井沢取材の際に作った、ポタリーペインティングの絵皿が焼きあがって届いた♪ 今日はこれを含めて3つの宅配便を受け取るために、一歩も家から出られなかったが、料理をしたり、久々に絵を描いたり、イタリア語を勉強したり、DVDを見たり、なかなか有意義な1日。心を休める日がたまにあっても、罰は当たらないよね。「ライフ・イズ・ビューティフル」、やっぱりいいな~。La vita è bella、人生は素晴らしい! 監督・主演のロベルト・ベニーニの言葉が好きだ。

La vita è bella, e anche nell'orrore c'è il germe della speranza,
c'è qualcosa che resiste a tutto, a ogni distruzione. Ridendo ci salva.

人生は素晴らしい、恐怖の中にも希望の芽がある。全てのことに、
どんな破滅にも耐えることができる何かがある。笑いは我々を救う。

やっぱり、笑いだよね。ある人から「あなたの笑顔は、人の気持ちを和やかにさせる、いい笑顔ですね」という温かい言葉をいただいてから、顔のコンプレックスがだいぶ和らいだ。パーツじゃなくて表情が大切なんだなと。笑いじわがたくさんできても、私は死ぬほど笑っていたい。ここ一週間ほどの鬱々感が完全に消えて、ようやく普通の笑顔が戻ってきた。

そんなことはさておき、なにやら意外なものがまわってきたぞ。お誘いいただき、ありがとうございます♪ これは、ぜひ答えねば!! (たぶん、あまり面白くはならないけどね。)

【自分を知るバトン】

Qあなたが異性を異性としてはじめて意識し始めたのは何歳のときですか?

 6歳(小学1年生)の時。
 学校へ行く途中、家に忘れ物をしたことに気付いて、
 泣きながら走っていたら、3年生のお兄さんが
 「どうしたの? まだ間に合うからだいじょうぶだよ」と
 優しく声をかけてくれました。かっこよかったなぁ。

Q小さな頃から誰かを好きになるという感情は持っていたかもしれませんが、「これが本当の恋」というものを感じたのは何歳の頃ですか?

 う~ん、難問。毎日が精一杯で“恋をした”という記憶も実感もない。
 知人いわく、私は「男性のアプローチに鈍感」なようで、
 何度となく「思わせぶり」という苦情が来ました( ̄∀ ̄;)

Q初めて唇をあわすだけのキスをしたのは何歳のときですか? それはどこでしましたか?

 うわー、覚えてない。ものすごく、小さい頃のことかも。

Q初めてフレンチ・キッス(ディープ・キッス)をしたのは何歳のときですか? どこでしましたか?

 たぶん大学生の時。だけど、大学時代~卒業後数年間の記憶が……。
 リアルに記憶喪失。

Q初めての異性とのデート(恋人相手でなくてもいいけれど)は何歳のときにしましたか? それはどこでしましたか?

 12歳の時、盛岡で。友達どうし、遊びの範疇でした。

(女性へ)

Qブラジャーを付け始めたのは何歳の頃からですか?

 う~ん、小学生だから、11~12歳くらいかな。
 あまりよく覚えてないけど、親が買ってきたような。
 ていうか、この質問に答えると何かいいことあるの???

Qはじめて本格的に化粧をしたのは何歳の頃ですか?

 これははっきり覚えてる。今年(2007年)の2月。
 怖くて鏡を見ることができなかった私が一念発起して、
 ドキドキしながらデパートのコスメカウンターに座った
 遅咲きの本格的コスメデビューでした。

(男性へ)
Q初めて射精したのはいくつのときですか?
Qどのくらいの頻度で夢精しますか?

■ここからまた男女共同質問

Q自慰は何歳のときからしていますか? 頻度はどのくらいですか?

 してません (*/∇\*)

Q初めての性交渉相手は誰でしたか? それはどこで行われましたか?
 詳しく教えてください。

 詳しく?! 場所は1人暮らしの我が家です。
 あとは言えない。絶対無理!!

Q初めてのとき、避妊具や性病を防ぐためのコンドームなどを使用しましたか?

 Noです! まあ、わりとそんなもんだよね ( ̄∀ ̄;)>

Qこのバトンを回す人を7人指名して下さい

う~ん、どうしようかな。ここは家族にも知人にも誰にも教えてないから、ちょうど1ヶ月ほど経ったところで、ブログがバレてるか確かめてみようか。一部伏字にするけど、本人はわかるだろうから、もしもこっそり見ていたら、この機会に思い切って白状してね♪

O●E さん
sa●●●play さん
Ф● さん
OL●●EL さん
Y●●●KO さん
ge●ki さん
be●●●maniac さん

なんだか、すごく楽しかった。内容が内容だけど、本来の自分が一気に戻ってきたような気がして。だから“自分を知る”バトン??? 思い出というと辛かった記憶ばかりが頭の中を駆け巡っていたけど、意外と楽しいこともあったんだな~と、色々な記憶が蘇ってきた。周りから見たら、今はかなり無茶苦茶な人間だけど、昔も品行方正なフリしてけっこう無茶苦茶だったような気がする。そうか! 私は元から普通とはちょっと外れた気質だったんだ、納得、納得。それを型にはめようと頑張り続けたから苦しかったんだね。私らしさを失わずに生きていける道が、必ずどこかにあるはず。たくさんのものを見て、たくさんのことに触れて、じっくり探していこうかな。

Pottery_painting

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2007年11月20日 (火)

写真

北軽井沢取材旅行2日目は、主にその土地で有名な食のスポットへの同行だった。朝7時に起床して、8時に朝食。楽しい夜を過ごさせていただいた「ブルーベリーYGH」に別れを告げ、目的地へのドライブ開始。その途中でとても美しい浅間山を見た。私の記憶に残る限りでは、2004年の噴火確認のニュースが1番印象的だが、調べてみると過去に何度も噴火を繰り返している活火山だとわかった。こんなに綺麗な風景なのに、山の内部では常に溶岩が滾り、現在進行形で活動中なのだと考えると少し怖い気もする。

私の故郷岩手にも岩手山という山があり、この山を見ると帰郷したのだという実感がわく。たしか、2000年頃に火山性の活動兆候が見られ、防災対策が急速に進んだような記憶があるが、現在はどうなっているのだろうか。昔は登山が大好きで、岩手山や姫神山にたびたび登った。頂上にたどり着いたときの達成感は今でも忘れられない。東京に住むようになってから、山など目に映る機会もなく、自然の乏しさに生気を失うような気がしていた。だから、この浅間山の風景は、故郷での数少ない楽しかった思い出と重なって、とても感慨深かった。

その後、ブルーベリーYGH近くの「カフェハウス ハイジ」へ。私の出番はなかった。と、思ったら予期せぬ顔写真撮影。私は醜形恐怖なのだ……。写真に写る中でも、これだけは本当に、特に駄目なのだ……。カメラを向けられても、緊張で全く笑顔が出ない。何度も取り直していただき、若干ご迷惑をかけたが、カメラマンの方の何気ない言葉が私の緊張を徐々にほぐし、6~7回目でようやく笑顔の写真が撮れた。カメラさん、本当にありがとうございました。その後、店で人気の高いケーキとコーヒーを堪能。ケーキはレアチーズケーキとベイクドチーズケーキ。どちらも甘さ控えめで全く食べ飽きることがなく、昨日体験したポタリーペインティングで作られたような風合いを持つ、鮮やかな青の皿と金色のスプーンに良く映えた。見た目も味も楽しませてもらった。

次に訪れた手作りベーコンの店とペルー料理の店でも、その土地で取れた食材と店主の手腕が融合した、オリジナルの料理を堪能させてもらった。ベーコンはあまり時間がなく、試食にとどまったが、肉厚でジューシーな味わいは、記憶に残るには余りあるものだった。ペルー利用理の店は、おいしい料理を食べながら、民族音楽の生演奏を聞けるということで、地元以上に、他県から足を運ぶ人も多いということだった。「人生の楽園」で特集されたことがあると聞き、それで思い出した。私はほぼ毎週「人生の楽園」を見ている。この店は以前番組で見たことがある。一瞬にして心が躍ったが、突然料理を食べながら音楽を聞いているシーンを撮影すると言われ、またしても緊張で表情が固まってしまった。本当に臨機応変が苦手だなぁ、情けない……。

オリジナルのアレンジが加えられた「コンドルは飛んでいく」が感動的で、もっともっと楽しそうな表情で盛り上がれるはずだったが、実際の私は手拍子がぎこちなく、表情も硬く、店を出た後は心の中でかなりの猛反省をを繰り返し、軽井沢駅へ向かう車中、異常に口数が少なくなるという事態に陥ってしまった。そういう心境になると、川原湯温泉のダム建設が脳裏を過ぎり、考え込んでしまう。水は人間が生きていく上で欠かせないもの。しかし、私たちはこれから温暖化の暑い夏、犠牲になった街の水を使って生きていく。あの温泉街が関東の水がめとなり、私たちの命の源となる。その事実は帰宅後も忘れることができず、あの街で出会った人たちの表情を思い出したら涙が止まらなくなった。

私にとっては楽しくも苦しい、ハードルの高い取材旅行だった。いつも人からは「突飛な行動」と言われるけれど、私はこうやって一歩一歩前に進んでいくしかない。うしろに戻らないだけいいと思わない? と言いたいところだけれど、私の行動は普通の人には理解しがたいらしい。帰宅後、思わず知人に聞いてしまった。「普通の定義ってなに?」と。一般的大多数と普通は違うよ。普通は人それぞれだと思う。今回の旅で出会った人たちは皆、一般的ではないけれど自分の意志を貫き、大成はしなくても自分の納得のいく生き方や居場所を確立していた。それが一番なのだと思う。

みんな勝手だ。私に「がんばれ」と言う割には、私なりのやり方を肯定するわけでもない。「いってらっしゃい」も「おかえり」も誰も言ってくれなかった。いてもいなくてもどうでもいい存在、というかいない方がみんな煩わしくないのだと思う。いいけどね、味方がいない状況には小さい頃から慣れてるから。私は自分で決めたことに全力を尽くすだけ。ブランクあり、病気ありで、一般的な生き方はできないかもしれないけれど、死のうと思っていた頃よりは絶対にマシ。私は生きるために今踏ん張っているんだ。あとは醜形恐怖の私が、雑誌に掲載された自分の顔を受け入れられるかどうか。そこをクリアして初めて、この旅が終わりを迎える。

明日は北京オリンピック最終予選、日本 対 サウジアラビア、国立競技場まで応援に行ってきます!

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2007年11月15日 (木)

寂寥

11月13日~14日、旅雑誌の読者モデルとして、軽井沢近辺の取材に同行してきた。たった2日間ではあったが、貴重な体験をさせていただき、リストの中から私を目に留めてくれた方々にお礼を言いたい。これまで、ブログの随所に書いてきた通り、私は一般的な大多数の人とは少し違う。それほど離れていない場所への旅であっても、道中なにが起こるのかが全くわからず、不安と緊張に押しつぶされそうだった。第一の目的地、川原湯温泉に着くまでは……。

最初に訪れたのは「豊田乳業」。私の役割はオリジナルのヨーグルトを飲んでいるシーンの撮影。甘みと酸味のバランスが調度良く、普通の飲むヨーグルトよりも濃厚で、とてもおいしかった。コーヒー牛乳も甘さ控えめで、牛乳本来の味や風味が活かされていた。カップに入ったヨーグルトは市販のものと比較にならないほど滑らかで、非常に口当たりが良かった。しかし、豊田乳業の取材を行っているとき、この辺り一帯が数年後、ダムに沈んでしまうという事実を知ったのだ。

ダムに沈む……。良く聞くフレーズではあるが、自分とは全く関係のないことで、「故郷が何なの? 母校が何なの? とりあえず、他の場所に引っ越せばいいじゃない」程度に、軽く考えていた。しかし、実際にダムに沈む街へ行ってみて、その場所を何十年も支えてきた人たちが失いつつあるものの大きさを知った。気心の知れた住民が一人、また一人といなくなる。家や店が一軒一軒取り壊され、次第に寂れていく街並み。それでも最後まで残りたいと、半ば諦めながらも闘い続ける人たち。美しい紅葉が映える周囲の山並みの一部は、ダム建設のために削り取られ、あまりの残酷さに写真が撮れなかった。

ほんのりと硫黄の香りが立ちのぼる王湯の撮影が終わると、次は足湯へ。そこで足湯に浸かるシーンと、温泉卵を作るシーンの撮影を行った。温泉卵が出来上がるまでの合間に、近くの川原湯神社へお参りするシーンを撮影。その頃には、最初に感じていた不安や緊張は全て消え、自分が楽しそうな表情で写ることで、この温泉街が素敵な場所であったという記録を残したいと感じるようになっていた。一読者モデルにそのような大それたことができるわけはないが、笑顔の裏には私なりの使命感があった。美しい風景や温かい人たちが、ダム建設の犠牲になることが、自分のことのように悔しくて悔しくてたまらなかった。

その後、川原湯温泉を離れ、宿泊場所近くの「アトリエSTAY」へ。西洋陶器皿の絵付けをやらせてもらい、元来絵を描くことが大好きな私にとっては、川原湯温泉で感じた物悲しさを忘れさせてくれる、唯一の時間であった。完成は一ヵ月後。どのような風合いになるかは、焼きあがってからのお楽しみ。できることなら、また行きたい。今回は先生が下準備をしてくれた、素敵な葡萄の絵に色を付けていったが、次にこのような機会があったら、今度は自分の描いた柄でポタリーペインティングを行いたい。終始カメラ撮影が行われているこの取材旅行の中で、最も自分らしい表情が出たのは、このアトリエの中だったと思う。

宿泊は「北軽井沢ブルーベリーYGH」。昔、高級リゾートペンションだった建物をユースホステルとして使っているということで、全室ユニットバス、トイレ付き。ベッドもソファーもテーブルもイスも全て高級で、ホステリングをしているとは思えなかった。「良い意味で裏切ってくれるよ」という編集さんの言葉の通り、夕食も“ディナー”というフレーズの方が相応しい、見た目良し、味良しの芸術品で、言うことなしだった。朝4時起きで東京駅へ向かい、夜中の12時過ぎまで動き回っていたけれど、どういうわけか疲労はゼロ。多少、会食恐怖が出て、途中から薬が手放せなくなってしまったが、大きなパニック症状が起こることもなく、無事に乗り切れた一日目だった。

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2007年11月 2日 (金)

風霜

数年前に肺がんを患い、延命治療を行わなかった母方の祖父が、寝たきり状態になったと連絡を受けた。米寿を向かえたとは思えないほど、見た目は生気に満ち溢れた祖父だが、体の中は癌細胞に侵され、8月に会った時、片肺はすでに機能しない状態だった。おそらく、この数ヶ月の間に、もう片方の肺も状態が悪くなり、徐々に体が蝕まれていったのだろう。足には浮腫が発生し、そのために歩くことができず、ついに寝たきりになってしまったようだ。最近では、呼吸が苦しいためか眠りが浅く、体力的にも衰弱する一方であるという。その祖父に付き添い続ける祖母は、どのような心境だろうか。十数年前、胃癌により胃の3分の2を切除した祖母の心身も推し量られる。

私にとって祖父母は、第二の両親のようなものであった。幼い頃、父が借金の保証人となり、家を失った時、金銭問題が片付くまでの数年間、私は祖父母の元に預けられ、そこで育てられた。祖父母にとっては血のつながった孫であっても、その家には私とは血縁のない人間も住んでおり、昨今たびたび耳にする虐待が行われてもおかしくない状態だった。実際、その家の人間に冷たい目線を向けられたこともある。言うまでもなく、両親と一緒に過ごせる時間は非常に限られていた。そのような状態でも曲がらずに成長できたのは、祖父母がしっかりと私を守ってくれたからであり、結果的に泥沼の離婚をした両親たちの全てを見てきた私にとっては、この歳まで連れ添っている祖父母の姿に尊敬と感謝の念を禁じえない。

2人は戦後、何もない土地を開墾し、家を建て、畑を作り、牛を飼い、自分たちの生計を0から築き上げた。現代では当たり前のように使用されている電気も、その頃は通っておらず、ランプに灯をともして生活していた。もちろん、水道もガスもなく、湧き水とかまどで煮炊き、入浴、洗濯を行っていたという。雪の多い土地柄、母は学校までの数キロの道のりを、スキーで登校した。言うなれば、リアル北の国からである。その厳しい環境の中で、自ら培った知恵と経験を駆使し、自分たちの力だけで生きる術を見出してきた祖父母の逞しさ、意志の強さを、私はずっと誇りに思っている。

しかし、人間の命には限りがある。人は与えられた寿命を全うするために生まれ、全てが燃え尽きた瞬間、帰らぬ旅に出るのだと思う。幼少期を終えると、祖父母に会う機会は徐々に減少していったが、その生きる姿勢から、私はたくさんのことを学び、伝え聞いたような気がする。祖父母から受け継いだゆるぎない精神と魂に磨きをかけ、自分を信じて生きていこうと強く思う。祖父母はもうすでに、十二分に天寿を生き抜いた。そして、与えられた役割を全て果たし終えた。望むらくは、残された2人の時間が、ゆっくりと穏やかに過ぎていきますように。奇跡なんて起こらなくてもいい。ただ、彼らが自分自身の辿ってきた道程に誇りを持ち、幸せだったと笑顔で自負できますように。

Maria

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2007年11月 1日 (木)

桔梗

自宅への帰途、道の傍らに季節はずれのキキョウが咲いているのを見つけた。そう言えば、最近絵を描いてないなぁ。そう思い、今年の春に描いたキキョウの色鉛筆画を眺めてみた。高校の美術の授業以来、10年ぶりに描いた、完全な素人絵だが、なんとも言えない懐かしさがこみ上げる。幼い頃、母と出かけた公園や野山には必ずこの花が咲いていた。深く、鮮やかな青紫色と均整の取れた形が美しく、大好きな花のひとつだった。上京して10年、一度も見かけたことなどなかったのに、こんなに近くに咲いているなんて全く知らなかった。というよりも、花はいつでもそこに在り、その花に気づく余裕を私自身が持ち合わせていなかっただけなのかもしれない。

数年前、一日一日を生き延びることで精一杯だった頃は、植物なんてどうでもよかった。難治性の病気を患い、お金を稼ぐ術を失った私は、それまでに貯めた預金を切り崩して生活するしかなかった。生活は困窮し、米一粒すら惜しかった。もちろん、化粧品や洋服を買う余裕もなく、次第に見苦しくなっていく自分の容姿が、終始消えることのなかった醜形恐怖にさらに拍車をかけた。路上で目に入るものは人の目と冷たいアスファルト。自宅の窓越しに見えるイチョウ並木には現実感が伴わず、酷く遠いものであるような気がした。小さい頃から自然の中で育ち、緑によって癒されていた自分を、完全に見失っていた。

ある日、自宅近くの花屋で売られていた、鮮やかなオレンジ色の花をつけた大きなアロエに、ふと目が留まった。一瞬にして心を奪われ、しばらく眺めていると、店員の女性に話しかけられた。「きれいでしょ? 多少日当たりが悪くても育つから、部屋に置いておくだけで元気になれますよ」。本当にきれいですね、今が咲き始めですか? 肥料や水遣りは控えめのほうがいいんですよね? 配達はしてもらえますか? ごく普通の店員と客との会話だったが、次から次へと口をついて質問が飛び出し、久しぶりに他人と意味のあるコミュニケーションができた。そして、自分に必要なものは体の栄養だけではなく、心の栄養なのだと気付いた。

金銭的に追い詰められた私が衝動買いしてしまったアロエは、私の生活や精神状態に良い影響をもたらした。毎日姿を変えていく植物をデジカメで撮影し、それを元にして絵を描くようになった。絵を描いている間だけは、全てを忘れて無心になれた。自分の原点はここにあったのだということを思い出した。高校進学の時も、大学進学の時も、私には専門的に絵画を習いたいという思いがあった。保育園の卒園アルバムには、無邪気な文字で「大きくなったら絵描きさんになりたい」と書いてあった。しかし、私が出会った教師たちは、絵画ではない他の分野における能力を私に見出し、別の道を歩むように後押しした。もしもあの時、自分の思いを貫いていたら、私は今どうなっていたのだろう。逆境に負けずに、自分の力で居場所を確立していたのだろうか。その疑問は今でもふと顔を出すことがある。

しかし、私の通ってきた道の全てが運命であり、それを後悔する必要なんてどこにもない。一見無駄にしてしまったと感じる時間の中で、私は普通の人には経験できない多くのことを経験し、学んだのだから。2007年8月20日、私は長年の確執が続いていた母方の伯父と和解した。強い夏の日差しが分厚く凍りついた氷塊を溶かすかのような、静かな攻防の中での雪解けだった。およそ10年ぶりに訪れた伯父の家。野山に囲まれた自然豊かなその庭の片隅にも、東京の路傍で見つけたあの花に引けを取らない、美しいキキョウの花が咲いていた。

Kikyou

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2007年10月29日 (月)

盛商

ファンタジーサッカー第30節、2日目。暫定67fpでフィニッシュ。FC東京今野→浦和ポンテの変更は助かったものの、ポンテのfpがそれほど伸びたわけでもなく、またもや平均を若干下回りそうな予感。ボーナスで挽回して、なんとか順位をキープしたいところ。

ファンサカとは全然関係ないけれど、私の故郷である岩手県盛岡市の盛岡商業高校から、浦和レッズに加入内定者が出た。2006年の全国高校サッカー選手権で優勝した時、2年生ながらチームの要だったMFの林勇介くん。スポーツ後進県岩手から浦和に加入するなんて、鹿島の小笠原満男以来の快挙だと思う。林くんがスタメンで試合に出るには、ポンテや田中達也に追いつき追い越さなければならないということ。左サイドならば相馬や平川、仮に三都主が浦和に復帰したら、三都主もいつかは勝たなければならない先輩となる。Jリーグ屈指の強豪チームの中でどこまでやれるだろうか。とにかく、個性あふれる浦和の選手たちに埋もれないよう頑張って欲しい。

盛商が初優勝を成し遂げた数日後、盛岡の中心部は人で溢れかえっていた。私は穴場となっていたアーケード出口のマクドナルド2階で写真撮影に勤しんでいたが、アーケードの中は優勝パレードを見るために集まった市民たちで身動きが取れないほど。これまでに見たことのない巨大な人の波には、サッカーをほとんど見たことのない人たちもたくさんまぎれていたと思うけど、なぜか人力車に乗って登場した監督とキャプテンが笑いを誘い、暗い影を落とす地方都市に明るい光が射したような気がした。

当時の盛商サッカー部の中で最も人気があったのが林くんだったように記憶している。特に、高校受験を控えていた女子中学生たちは「林くんに会いたいから盛商を受験する!」と、ものすごい意気込みを見せ、県内高校入試倍率の1倍割れが目立つ中、その年の盛商の倍率だけは跳ね上がっていたことをはっきりと覚えている。その後、NHKの朝ドラマ「どんど晴れ」の放送や、元県知事増田氏の入閣など、盛岡に関する話題が全国放送で頻繁に流れるようになり、東京で1人暮らしをしている元盛岡市民にとっては嬉しい限りだった。住民票の上では都民だけれど、心は今でも故郷に在るのかもしれない。

長期に渡った陰湿ないじめのせいで街を歩くことができなくなり、東京の大学を受験して無理やり盛岡を出たのに不思議なものだ。「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしやうらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや」(室生犀星「小景異情ーその二」)。文壇で有名になった後も、過酷な幼少期を過ごした故郷金沢に戻ることがほとんどなかった犀星だが、犀川の写真だけは常に身の傍らに貼っていたという。この詩に詠まれている通り、私も犀星と同じ心もちなのかもしれない。あれほど帰りたくなかった故郷をテレビを通じて目にするたびに、なんとも言えない懐かしさがこみ上げてたまらないのだ。

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2007年10月24日 (水)

追憶

X japan、復活おめでとう! 解散後、HIDEが亡くなり、こんな日が来るとは夢にも思っていなかった。TOSHIの声が聞きたい。児童虐待とか、監禁とか、洗脳とか、様々なスキャンダルに見舞われたけれど、その真相は私には何もわからないけれど、人は誰でも道を間違えることがある。強いコンプレックスを抱いてきたならばなおさら、心の中には常に何かにすがらなければ生きられないほどの苦しみや葛藤が混在していたことだろう。だけど、私はずっとTOSHIを信じていた。あの歌声は無条件に人の心を揺り動かす。勇気を与える。他の何物にも変えがたい貴重な財産だと思う。今年の3月21日、再結成と新曲リリースのニュースが伝えられてから、ずっとずっとこの日を待ち望んでいたよ。

ライブに行ったことは一度もないけれど、X japanには思い出が多い。小学2年生の時、父に買ってもらった誕生日プレゼントが、初めて手にしたCDアルバム「BLUE BLOOD」だった。父は私が産まれた時、目に入れても痛くないほど可愛がったそうだ。しかし、借金の保証人になり、家や仕事を失ってからは、精神疾患の予兆が見られ、酒を飲みに行ったきり家には帰ってこなくなった。幸いにも、しばらくして新しい職場が見つかり、逸れてしまった軌道が元に戻るかと思われたが、次第に無断欠勤が重なり、ついには解雇。中学2年の夏、両親は離婚した。

「BLUE BLOOD」をもらった年の11月に弟が産まれて……父が私に対して率直に愛情を示してくれたのは、その頃までだったかな。酒を飲んで帰ってきた時、理由もわからないまま正座させられ、怒鳴られ、殴られたことは今でも忘れられない。その時、そばにいながら、ただ傍観するだけだった母の表情も脳裏に焼きついて離れない。最も傷ついた言葉は「もっと可愛かったら良かったのにな」。今思えば、人間として真っ当に生きることができない不甲斐なさを感じていた父が、それを見つめる娘の目に耐え切れず、思わず口にしてしまった言葉だと思うが、思春期の多感な時期を過ごしていた私にとって、この言葉のダメージは大きかった。その頃から、私は自分の容姿に強いコンプレックスを抱くようになった。

だけど、父にもらったものの全てを、私は今も捨てられずにいる。全く恨んでもいないし、仮に今街で出会ったとしても決して責めることはないだろう。きっと父も父なりに苦しんでいたのだろうから。「BLUE BLOOD」のジャケットを見るたびに、懐かしさがこみ上げてくる。ジャケットに写る決してノーマルではない風貌の5人の男性。それを見て、父も母も「本当にこれで良かったのか……?」と怪訝そうな顔を浮かべていた。だけど、私は嬉しかった。このアルバムを中心としてみんなが会話し、壊れかけの家族がひとつになっていることを、生まれて初めて実感できたのだから。

もうひとつ、X japanとは切っても切り離せない思い出がある。高校2年の時、偶然同じクラスになった友人が、X japanの熱狂的なファンだった。私が小学生の時「BLUE BLOOD」を聞いていた話をしてから、彼女がX時代からのファンクラブ会員であったことを知り、一気に会話が弾んだことを今でもはっきりと覚えている。高校時代はよく学校帰りに一緒に繁華街へ出て遊んだし、卒業後、私が東京へ引っ越した後も連絡を取り合っていた。一緒にROUAGEのライブに行ったこともあったなあ。クリスマスイブの夜だった。ライブが終わった後、渋谷のカラオケボックスに入り、2人で朝まで歌った。決して忘れることのできない、大切な思い出となった。

あの頃の私は小中学生の頃に受けたいじめが原因で、人と親しくなることがとても苦手だった。ある日、突然友達だと思っていた人間が手の平を返す。クラス中を巻き込んで、私を孤独に追い込む。授業間の5分休み、教師が教室からいなくなるたびに、教室のいたるところから「ブス」「臭い」「死ね」という言葉が飛んでくる。毎日、毎時間、耳を塞いでも決して逃れることのできない言葉の暴力。頭がおかしくなりそうだった。教師にSOSを出しても、気付いてはもらえなかった。家庭は借金や父の失踪でそれどころではなかった。だから、私は誰にも何も言わずに学校へ通い、中学を卒業するまで耐え続けた。

そのトラウマは今もなお消えていない。だから、友達は一人もいない。そんな私が唯一信頼できたのが彼女だった。彼女は生徒会に所属して人の先頭に立つ行動力のある子で、物怖じしない、きっぱりとした性格がとても好きだった。どのような人に対しても態度を変えることは無かったし、見た目で人を判断するようなことも無かった。私も彼女も普通とは少し違った考えを持つ異端的な部分があり、そこで馬が合ったのかもしれない。私はずっと彼女には敵わないと思っていた。誰にも負けない強さを持った彼女の生き方と比べて、自分の生き方が気恥ずかしいものであるように思えて、結果的に自分から連絡を絶ってしまった。

X japanが解散したのは1997年12月31日。私たちは高校3年生で、年明けにはすぐセンター試験が控えている状態だった。しかし、彼女は解散ライブのチケットを持って、一人で東京へ旅立った。お土産にパンフレットを買ってくるからねと約束をして。その後、彼女は思い通りの進路を歩めず、予備校に通うことになった。しかし、翌年には国公立の大学に合格し、さらには元より志望していた他大学に編入を決めた。すごいなあ。私にはその言葉しか出なかった。「地元に帰ってきた時は声をかけてね」。彼女から送られてきた手紙の台詞とは裏腹に、臆病な私には電話をかける勇気も、メールを送る勇気も全く出すことができなかった。

彼女は今どうしているだろうか。結婚しているのか、仕事に生きているのか、想像もつかないけれど、自分の力で自分の納得できる道を歩いていることだけは間違いないと断言できる。私は彼女のようになりたかった。同年代で尊敬できる人間は彼女だけだった。TOSHIが10年ぶりにYOSHIKIに会いに行ったように、私も10年ぶりに彼女に手紙でも書いてみようか。転居により届かなくても、返事が返ってこなくても、そのことをきっかけに、また一歩前へ進めるような気がする。あれから10年も経ったなんて信じられない。願わくば、彼女が幸せな人生を歩んでいますように。あの頃のように自分の信念を貫き、活力に満ち溢れた、芯の強い彼女のままでありますように。

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