応援
されるのが、あまり好きではありません。もちろん、とてもありがたいことですので、“ありがとう”という感謝の気持ちは忘れませんが、応援のメッセージはそれほど私の力にはなりません。なぜなら、基本的に私は自分で自分を鼓舞し、9割方、その時に出せる限りの力を出して生きているから。喜怒哀楽の全てが、私の生命力の一部です。
別に、鬱病の人に“頑張れ”という言葉がタブーだとか、そんな論議を始めたいわけではありません。私はうつ病ではありませんから。だけど、生きる上でエールを送られるのは、必ずと言っていいほど、泣いている時や落ち込んでいる時。それが、どことなく無責任だという気がしてならないのです。
なぜ、人が幸せな気持ちでいる時にエールを送らないのですか? “いつも”応援していますよ、“いつも”見守っていますよ。なぜ、そういうスタンスで人に接しないのですか? 一生懸命生きている人に対して、私は“いつも”気持ちが寄り添っている状態です。
もちろん、誰かが泣いていたら光を射してあげたいし、道に迷っていたら一緒に探してあげたい。涙を半分、分かち合います。だけど、むしろ私が応援のメッセージを送るのは、人が笑っている時です。その幸せがずっと続きますようにと。もう一度、書きます。喜怒哀楽の全てが、私の生命力の一部です。最も苦しい時に送られる中途半端なエールは、自問自答し答えを出そうとしている人間の心を混乱させるだけですよ。
余談ですが、心理学の本にはたびたび“頑張ってるね”という言葉が出てきます。現状の頑張りを肯定し、気持ちを楽にしてあげる狙いを持った、励ましの言葉です。だけど、この言葉も私のような人間にはそれほど効果的ではないですね。だって、褒められるほど頑張っているとは思えないから。界王拳のように、やる気になればきっとまだまだいけるはず。
ただし、やはり消耗は激しいです。激しいけれど、常に自分にプレッシャーをかけ、鞭を打っている人にとっては、マニュアル的な“頑張ってるね”という言葉もまた、琴線には触れません。会話の内容よりも外見の印象が大切だと思う今日この頃。拙い励ましの言葉でも、真剣さは目や表情から必ず伝わります。逆にいえば、嘘も必ず伝わります。応援してもらえるというのは嬉しいことですが、自分自身の力の源となるのは、自分自身に対しての信義です。チームプレー系スポーツをやってきた方とは価値観が異なるかもしれませんが、結束力や求心力以前に、自分のストイックな心構えが、私にとっては何よりも重要なのです。
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